2020/07/02

      青春時代のアルカディア(素朴な理想郷)としてピンナップ
 

こんな、どこにでもいる普通の、ただの男にも青春があり戸惑い、うろたえながらもバランス感覚を意識して自分らしさを失わず

何が出来るか、真摯に模索した若き日があったことだけは事実である。まあ笑って見てくれたまえ。

 

            

 

 すべての原点/我が生家  厳冬の十勝

   
  yutari01.jpg (98615 バイト)

1946年(昭和21年)生家として、15歳の中学までを過した「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の、まさに我が「ふるさと」。

 

外棟に五右衛門風呂、馬屋、鶏舎、薪小屋。小学校時代は牛に綿羊に、豚も。味噌、醤油などすべて完結する環境にあって祖父母、父母、6人兄弟の大家族。プラスして叔父さんや叔母さんも間欠的に同居。東北からの出稼ぎ(援農)の人もいて、多くのドラマがあり。モーパッサンの「女の一生」以上の長編小説が書ける位のステージである。またいつの日か加筆展開しようか。

 
  S2907.jpg (270459 バイト) CIMG6775.JPG (427527 バイト) page01b.jpg (219751 バイト)

         男兄弟での制服での記念写真

 
  父竹一明治44年/母とよの大正4年生まれ   6人兄弟揃っての写真                        小生左から3人目  
   小学校時代 1953年〜-1958年頃 (昭和28-33年頃)    
 

seisakukulub.jpg (77085 バイト) 

 

新井先生?制作クラブのメンバーたち/前列左が小生。木造長屋の学校も卒業頃にはモルタルの新築校舎になった。

子供の頃から生活環境に木材の破片や大工道具があり、絵を書いたり物を作る機会が多く、そんな中でもお金のかからない木片と彫刻刀だけでレリーフなどを彫ったりしていた。

兄弟で手の上に乗る程度の熊の木彫りや鮭を担いだ熊の「状差し」を作りあったもの。ともあれ、遊ぶ道具はほとんど自分で作るしかない、プラモデルのない時代だ。

 

 

木彫のイロハ

 

小学校も高学年になると、百葉箱(ひゃくようそう)の湿度計の水を取り替えたり、風速を測定、手旗信号など、理科系の学習?(遊び)にいとまはなかった。

薪割りの中から適当な木材を選んで、マンガ「ごろっぺ」の狸をレリーフで彫ったりしていたが、立体像も結構彫ったものだが現存しない。  
 

雪スケート

若き日の土門先生

イメージ写真

 
  雪スケートを長靴に取り付けて小学校の通学に利用した。当時は今より雪が多く、道路は圧雪で学校まで行けたのである。横滑りを防ぐために父親の「三角やすり」で刃の裏に溝を掘っていた。 5年からの担任教師の土門先生の指導で、人形作りをして村の映画館で人形劇をした。新聞紙と糊で作って、眼はピンポン玉を使う。猿の顔を似せようとして作るもうまくいかず。若くしてなくなった翠(みす)女子はイメージ写真のような具象化した人形を作って、髪も毛糸で。そっくりに作ることしか頭になかった自分は彼女に強烈なショックを受けた。  
 

ものつくりの原点か

小学校時代から我が「ふるさと」にあった「農機具」も強烈な好奇心をあおる対象物。昭和30年代の十勝農業の一端をご覧あれ。

クボタの石油発動機

農具ページへ

 
   中学校時代   1959年〜-1961年頃 (昭和34-36年頃)    
   後列左が小生

イメージ写真

美術担当の本山先生

独身でやさしく、しかし斬新な指導をされた。

 
 

まさに好奇心の塊のような学童たち、それでいて如何にものんびりとした自然環境の中で好きなことを「させていただいた」のである。

実際には、スケートリンクでスケートなく雪上サッカーだったり、野球の試合にスパイク、ユニフォームなくベンチだったり。まあけっして裕福な環境ではなかったが、それでも、である。

絵を書くことは大好きだったが、静物や風景画をリアルに描くことが主であった。ところが包装紙のデザインを指導され、繰り返しのパターンや左右対称(シンメトリー)といった手法に驚いた。デザインの概念がない時代に、である。

木炭デッサンで「食べたことのない食パン」を買いにいって、食パンで消したというカルチャーショックも教えてくれた。

 
   子供の科学  
 

1960年頃の中学時代は「子供の科学」月刊誌が好奇心に火をつけて、イモズル式にあれこれ展開。

紙面後半の材料カタログページから、望遠鏡のレンズ単体や、ロケットエンジンを購入、天気図も。

 

田舎にいて、この誌がいかにインパクトがあったか、後の「ものつくり」人生に繋がるバイブルであった。平成の現在も刊行されている子供の夢を育むすごい誌である。

夢ロケットのページ

ロケットエンジンを入手、畑の中で打ち上げ、一人感動したもの。一回の打ち上げ固形燃料が25円、高かった。

 
 

 

 

 

これはパンタグラフと呼んでいた拡大器。雑誌の写真を拡大転写したり、模型グライダーの図面を拡大。一番の傑作はグライダー図面を倍寸にしてすべて手作りで完成、水平尾翼にもリブを入れ、手作り滑車で畑の中で滑空させたものである。重量感があって電柱に翼が当たるともげるほどの、中学生にとっては迫力満点であった。

前部の重り(ノーズ)部分はすべて倍寸では翼の浮力が大きく、金属を足さねばバランスが取れないという発見をしたのも今だ記憶にある。写真はイメージ。

天気図は「ラジオ用天気図用紙」を買って、NHKの気象通報を聞いて書き込み、自分で等圧線などを引けるまでになったものの、用紙も高くてそれまで。ウラジオストック、晴れ、1100ミリバール、北北東の風、風力3などと聞き入って書き込んだものである。
今のような気象衛星もTVもない時代の体験だ。50年前とほとんど同じで今も売っている。天気図用紙 1号

 
 

ワルサーP38

子供遊び道具としてはブリキの連発ピストル位しか買えなかった時代、版画の板を二枚あわせでこのモデルを制作、トリガーは竹を曲げて。

グリップに単三乾電池を装填、ガン先に豆電球を入れてガンライトにして、紙でガンホルダーを作って学生服の中に忍ばせて得意になっていた。

ルガー、ベレッタ、南部14年式とかガンモデルのバッジが雑誌をにぎわせていて、それをパンタで拡大、リアルに制作した。

ガンの雑学ページをご覧あれ。  
   速記の通信教育にトライ

 
 

物も金もない中学時代になぜか初めて「通信教育」を始める。

 

 

 

 

 

速記のページをご覧あれ。

   
  中学時代も自分の周囲しか視野に入っていない時代なのである。    
   
   高校時代   1962年〜1964年頃 (昭和37-39年頃)    
 

現在の高校受験というハードな勉強もせず、叔父さんや親の勧めで釧路の工業高校に進学。親元を離れて下宿生活から始まる。

父親付き添いで、製図版、計算尺、デバイダー、烏口などの製図道具を購入して貰って新鮮な気持ちでスタートした記憶がある。

   
 

 月見荘という下宿

釧路の春採湖を眼下に4畳間で3年過す(中央は旧、柏木小)

生家を離れて、初めて世に出たという多感な15歳時代、スタートはシンパの大学生と一緒の部屋で、座机の下に頭を突っ込んで彼が寝るまで待つという精神的にきつい数ヶ月であった。

 

 
   
  下宿雑感 風呂代が19円時代、18リッター灯油500円  
 

灯油ストーブとヤカン

松本零士「男おいどん」は4畳半、小生は4畳間、サルマタケの押入れは1畳だがこちらは半畳。18リッター灯油を1ヶ月持たせるために2畳に仕切って、夜はラーメンをかじってお茶か、スキムミルクを飲んでいた。

 

弁当はあたったし、当時では兄弟の中でも唯一米の飯を食せた、羨ましがられた生活。

だが冬の洗濯はこのヤカンのお湯のみで、すすぎは氷が浮いているような冷水で、手を真っ赤にしての洗濯だった。

 

 

 

 
 

ナショナル2バンドトランジスタラジオ/3年間愛用の名機、たしかずっしりとした、こんなタイプ。

直江叔母さん(→後列左)から借りた、唯一の「情報機器」。

TVもなく、布団を被って短波放送で「ビートルズ」のデビュー曲を聞き入った。イヤホーンで深夜のポピュラー音楽を聞きながら、真面目に勉強したものだが、これがポピュラーサファリクラブ」のレコードコンサートに繋がっていく。

 

CIMG0722.jpg (83764 バイト)

馬舎の前で、兄姉と母、右後ろの馬そりはバチバチである。

 
 

高校の3年間、夏の通学はほとんど下駄履き。皆がそうなので、不思議に思わず、下駄も鼻緒も簡単に入手、歯は磨り減り、指跡も磨り減り。何足潰したものか。

もう一つの必需品/親から譲ってもらったトラベルウォッチ。

 
   ポピュラーサファリークラブ  
 

下宿の同居人、20代前半の社会人「石塚修一」氏が立ち上げたもので、釧路市内のレコード店を後援に市民ホールで「ポピュラーコンサート」を実践。

小生はステージの裏方で応援していただけ。

 

石塚氏の大好きな「サファリの夕陽」から命名したと記憶している。ベルケンのである。

当時は30cmSP版、曲を紹介してただステージの大型スピーカーからポピュラーソングを流すだけだが、ホール一杯の若者が静かに聞き入ってくれた、今思えば不思議なコンサート。

30円の入場券で、得た利益はガールスカウトに寄付、お礼の食事会も記憶にある。

石塚修一氏のページへ。

 

   BGMが始まりますのでスピーカー音量にご注意ください。

 
   当時の工業高校機械科  
 

なぜか持っている写真/

 

機械実習室/昭和の30年後半なれど旋盤などは「戦時中」のものと変わらないもの。

一応の加工機械はそろっていた。

旋盤、歯切盤、ラジアルボール盤、型削り盤、大型プレーナーなど。手前の仕上げ台で、シャルピー試験片などを作った。

 

もちろん鋳物実習工場では木工旋盤で木型を作り、キューポラから鋳込んだもので。

基本的な「鋳造」「工作機械」「材料試験」などの体験からデスクでの「製図」、「工業経営」「金属材料」など工業系の授業のほかに「幾何・代数」「日本史」などの一般科目もあったがこちらはあまり興味なく「応用物理」は好きなほう。

 

自動車の解体など思い出す。

 
 

普通高校にない、実習室の広さは「工業試験場」並み。

化学科、建築科、電気科、当時はまだあった採鉱科などすべてに実習室があった。

右の写真の背景は実習棟、柴田君に渡辺君(他界)。

つなぎの作業服は「3年間洗濯しない」という当時の「伝統」に習って。

 

 

工業に来た15歳では「鉄」は硬いもの、重いもの位の常識しかなかった。その「金属材料」による驚きは今も鮮明に覚えている。鉄を鉄で削る、炭素鋼の焼入れ、合金の不思議、など後々の製造業での勤務にも大きく影響した。

金属材料の「平衡状態図」が理解できたときは感動ものでした。A1変態点やマルテンサイト、オーステナイトなどの意味を理解して社会人になれたのには、感謝!!でした。

真面目に勉強しましたよ!!

 
 

3年間担任をして頂いた「弓場先生」。

当時、暴走しそうな仲間や追試常連も何とか卒業、就職にご尽力された、お世話になった先生です。

 

 

右写真/下宿先と学校の中間の「鶴ケ岱公園」にて。

手前の阿部君とは同じ会社に就職する。

CIMG0720.jpg (103390 バイト)  
   メノナイト教会    
 

釧路の春採湖の近くに日本メノナイト鶴ケ岱キリスト教会 があり、お世話になった「故人 棚瀬多喜雄」氏。

 

彼が34−5歳の時にお世話になったことになる。高校時代、この教会で英語のミニ新約聖書を使って英語を教えて戴いた。当時戴いたそれを今も持っている。当時は洋書の匂いのする、珍しいもの。

  「日本メノナイト協会宣教史」に足跡が。

 
  ※高校の図書館で、誰も借りていなかった「太宰治」の本を借りて全巻、下宿で寒さに震えて布団の中で読みつくし。「人間失格」などから、ラジオ放送ルーテルアワーの通信教育を受け、メノナイト教会に足を運んだ。 以後、社会人での苦しいときに大船のルーテル教会に訪れることになる。その時の牧師が小生の通信教育の添削者と知る。  
   めでたく卒業    
 

男ばかりの「文化祭」、ステージで当時のバラエティ「夢であいましょう」をまねて振り付け、ダンスを披露。小生は派手が出来ず、彼女を真似て座って「首を傾ける」だけ。

 

その企画、振り付けは「音楽のプロ/渡辺君・青木君」。その渡辺君は公務員を中途退職し「音楽教室」を開いて60代半ばで他界する。

男子ばかりにて数人で「女子高の文化祭」見学を一度している。3年のとき初めて建築科に女子が入学、注目されると美人になるという発見をした。

 
 

1964年10月、東京オリンピック開催の時期に東京で面接試験、クラスの阿部君と釧路から東京までの特急列車で。

旅費は会社で出してくれて時間があったので代々木のオリンピック練習風景を見て帰郷。

 

下宿に戻ったら「採用通知」が届いていた。

「ガソリン計量機メーカー」当時は東京龍野製作所、その横浜工場。

 

koukou_siken.jpg (65127 バイト)  
 

高校の3年間はクラブ活動もせず、離れた父母に心配かけないよう欠席しないこと、それなりの成績を残すことには腐心したが、

ともあれ親の経済的な負担は、後のちに理解する。

 
   
   社会人スタート    1965年〜1971年頃 (昭和40-46年頃) 釧路から横浜(戸塚区)へ   
 

1965年3月末横浜の寮に直行、まさに布団袋1個での社会人スタート。親に買ってもらった革靴、一張羅の背広を持って。

 乗車切符に付く「チッキ」一個のみ。

 

 

 

 

 

 

 

入社時は本社工場が田町にあり、左の横浜工場が完成して多くの社員募集をしたようだ。

 
   誰もが経験する入社式/本社で赤飯が出て、なぜか一番列車で帰寮の記憶が。  
  全国の工高から入寮した同期のものは、総務の計らいで休日に会社のバスで近郊の観光や、映画にまで案内して貰い、結構大切に扱われたもの。経済成長期の時代がそうさせたものと。

CIMG0734.jpg (67445 バイト)

 
   寮生活/暫くは4畳間位に机2本、二段ベッドで二人住まい、まもなく個室となる。  
  ryouseikatsu.jpg (80183 バイト) CIMG0761.jpg (106202 バイト)  
 

管理人の計らいで、正月に故郷に帰れなかった残留組で新年会。

   寮の池の辺で。

 
  CIMG0727.jpg (64210 バイト)  
 

工作課の職場の人達は明るく、宴を楽しむ術がある。

昼休みの職場対抗ソフトボール大会。事務系も全員上下共作業服スタイル。  
 

 横浜工場での入社してから4年間は、「ヤスリかけ」や「流量計の組み立て」など、毎日毎日同じことの繰り返し。

 工場と、寮の間の食堂を往復。通勤地獄は経験せずに終わったが「悶々とした日々」が続く。

 
 

 「日本力行会」

  4年後は同世代の大学生が入社してくる。その時は先輩として彼らに負けないスキルを持たなくては。大学の壁を越える活動は海外

  にあるのでは、と「日本力行会」のパンフでブラジル企業を志向し、断念。

   現在も活動している。

 
 

  「日本点字図書館」

   何かもっと世の中の役に立つ仕事をしなくては。そんな思いから   こちらの通信講座を受ける。

   

   50音など比較的覚えやすいが、文字間隔などのルールが難しい。

   「怒りの葡萄」を点訳しながらそのハードさと時間に挫折。

 
 

 * 「丹田呼吸法」

   工場での仕事は「人前で話す」機会なく、「あがる」に慣れるため、「丹田呼吸法」を習いに「高田馬場」まで仕事を終えてから

   何度か通った。「ムカデの足がからまる」話と若い初対面の異性との会話訓練は今も忘れられない。なぜか美人ばかり。

 
 

 * 「コンパ」  今で言うコンパを同期の男衆、社内の女性や社外の女性と、大船観音寺などで。寮では「同人誌」などを使って

   意見交換会を。「井の中の蛙」を払拭するべく、意外と必死であった。

   奇特な先輩から独身の理由が「彼女の人生を他の男から奪う」ことでと、やさしすぎるスピーチも頂いた。

 
 

 * 大船ルーテル教会  高校時代の通信教育の添削牧師が当時この教会に。深夜まで色々と相談に乗っていただいて、十九-二十歳の

   若造相手に。その時お借りした本が内村鑑三の「後世への最大遺物」であった。

 
 

朝日ジャーナル/当時学生運動が活発で、自分は工場の歯車。

        何とか言葉や「事柄」を理解しなくてはと

        カタカナ用語辞典を座右にして苦読したも

        の。

福音と世界/  単なる信仰の誌ならず、難しいもの。

        現在も「新教出版社」で。リンク

   表紙の版画は「渡辺禎雄」氏で版画としても興味

   大の誌であった。

 
   バレーボール /社内の他の職場を知るにはクラブは先輩後輩、職場を越えた人脈作りに生かせると始めた。  
  tatsuno01.jpg (107136 バイト) 工場敷地の空きを利用して野球、テニス、バレーコートと整地してそれぞれがクラブ活動を始めた。新人は率先してリヤカーを引き、働いた。心身ともにきつい時代でもあった。プレハブ風の寮で、真夏は小型扇風機を裸に向けて寝ざるを得ない時代である。深夜、蛙の鳴き声に悩まされた位の自然が残っていたエリア。

バレーボールのページをどうぞ。

高校の下宿時代は洗濯板での、晩飯を心配していた環境から、この寮では洗濯機、食堂という環境も整い、心置きなくバレーボールを楽しむことが出来た。画期的なことであった。

 

 

 
   横浜デザイン学院   
  こちらのページをどうぞ

キーワード/岡本太郎の灯油缶、宇野 亜喜良、資生堂MG5

                 横尾 忠則、ポップアート、テキスタイル

 

作品の写真がないが記録どころでなく必死であった     

 
 

昭和42年20歳時代に「デザイン学院」に通い始めたが、小生のみならず、寮生の仲間たちは、それぞれスキルアップに努力していた。

宮崎君は「英語」の勉強で個室は英文ばかり。外人と飲み歩き、その語学力で、当時の「電算室」配属となる。

 

 

 

同郷の仲間と三島の彼のAPで。

 
   レリーフ(relief)製作  
  幼少の頃の「彫刻刀」を持ち歩き、単身時代は時間があれば版木を彫っていた。1枚100円程度の板とクリアラッカーがあれば作れる、もっぱらレリーフ。お金のかからない趣味だがこれらは横浜時代(20代前半)までである。

こちらのページに当時の作品が少しあります。

 
 

 入社して5年前後に同期の仲間とともに人事異動があり、多くが単純作業から開放された。検査課や工務課、営業と

 配転、それなりに中堅として期待された世代となる。他力なれど「悶々とした日々」から少しサラリーマン化していく。

 
   部品組み立てに4年、その後新しい事務所でデスクを戴く。業務の仕事で 全国の営業と工場の仲買のような仕事に。  
 

当時は広い事務所と河をはさんでの工場なので、最新のポケベルと自転車で構内移動。デスクワークはわずかで配送にもかかわった。

ゼロックスの大型コピー機が、また電算室ができて、キーパンチャーも。デュプロ印刷機からコンピューターの伝票に刷新され始めた、昭和の革新の時代。電算室の仲間は恒温室で泊り込みしていた。もちろん、当時の大型コンピュータである。テレックスも使われていた。

 

入社から数年で右の研究棟などが完成し2階でのデスクワークとなる。

 
 

  

   デュプロ印刷機         手回し計算機

 
            再発行の複写伝票は古いタイプライターで作成。後のパソコン時代にもキーボードに抵抗なく。手回し計算機は使わず。

ポケベルは構内での呼び出しにのみ使われたが、最新であった。支店営業からの呼び出しで電話を探して走り回った。

 
 

業務課と総務課が一緒になっての旅行会など「単純作業」の職場とは違ったサラリーマンを幾らか味わった。

しかし他力で成せたことであり、常に「単純作業」の職場から後ろ髪を引かれる思いは続く。

 
  tasuno003ab.jpg (150030 バイト)

熱海温泉も記憶があるがこれらの観光地名は忘れている。

 
   ↓ 数少ない、女性に囲まれての記念写真。マスクなしで失礼。   ↓ 少し背広が板についてきた時代。  
   
 

事務系の社員が、構内でゴルフの練習。自分の近未来、そんな甘いサラリーマンにはなりたくない、今流にいうと「ゆるい」生き方はしたくないという思いもあり、平和な仲間に興味なく。

研究部も移動してきて、研究棟も出来、グランドもなくなっていく時代。研究部の連中にはジェラシーを覚えた。

札幌の営業所を紹介もしてくれたが、昼間からマージャンするものたちにも興味なく、退職の意思を固める。卒業でもあった。

 
 

昭和45年秋に結婚を前提として、退職、札幌に移動の計画を立てる。

昭和46年3月21日退職して4月1日に札幌の住民となる。

のちにターン(Uターンとは違う)という言葉を知る。

3月20日入社だったのでまるまる6年、という日を選ぶ。  
     100年記念塔前で  
 

札幌に住んだらなかなか行けなくなるとの親友、志沢君の計らいで、

島根に同行。出雲大社にて記念撮影。

25歳、無職で札幌の鉄東地区アパート屋根裏、再び4畳間から再スタートとなる。不安もあったが、ある意味チャレンジャーでもあり若いエネルギーでもあった。

屋根裏での数ヶ月、職安(今のハローワーク)に通う。夜は小林茂著「ソニーは人を生す」誌など読みあさり、昼間は寝る、という生活。

彼女に冷蔵庫を買って貰うという文無しでのスタートだった。

 

小さくてもメーカーのコアを持った道内企業を求めて、まずは職安の紹介で札幌の製造業に就職する。6月21日からの就業。横浜の企業を退職してジャスト3ヶ月休業。以後定年まで、こんな休業はない。

 

入社当日から工場での「パイプ曲げ」、何に使う部品かも教えて貰えず、新聞片手のバス通勤が始まる。覚悟はしていたものの、カルチャーショックを受けた。

生意気ながら、この会社を日本一のメーカーにしてやろうという思いは強いものがあって、年下から「綾!」の呼び捨ても飲み込めた。

 

その入社1ヶ月位後のキャンプ場で、初めて会った社長にスパイの嫌疑をかけられ、次の日「退社届け」を持参するという、緊張感のある再スタートであった。

その後36年もの間、メーカーらしい会社にすべく努力することになる。

 
   

キャンプ場でのスパイ事件現場 ?

 
 

青春時代のアルカディアとしてはこの辺で幕とします。真摯に生きた青春は独身時代の、どこにでもある「男」の章なれど

今、高齢の時代を生きる自分の「温故知新」として書いている。多くの皆さんに感謝!!!       (H26年11月14日 68歳)