2012/01/20

 

 

 感動の石油発動機 <1950年代から(昭和20年後半)>

 
 

 

水冷式で、上から湯気を出しパワフルに駆動、平ベルトを介して脱穀機

などを動かしていた。燃料はガソリンでなく石油だが貴重なエネルギー

に変わりない。

オイラーなど今とほとんど変わらないベーシックな構造。今も全国に愛好者がいる。

自分が小学校の低学年頃購入された、当時の農業に「革命」的な助っ人として活躍した石油発動機。トラクターがようやく輸入されだした頃、我が故郷にも登場。

中学時代までしか「お付き合い」出来なかったがクボタ製の名機なんだと思う。農家に必須の動力で、当時メーカーは100社もあったという。

 

物心ついた頃から活躍していて、そのメカに当時は興味深々、長男が中学生で駆動させていたので自分も中学生になったら駆動させてもらえると心待ちしたが、とうとうOKは貰えず。三男坊の小生はクラッチを押して空回転させるのみで、その無念さは長く尾を引くことになる。

石油で駆動する、シングルクランクのエンジンである。

 

 

 
デントコーンなどをカッターで畜舎の屋根裏に吹き上げていた。このカッターは今は電動機だが、当時の構造とほとんど変わらない。

デントコーンをコンベアが送り込み、チェーンスプロケットで食い込んでいく迫力は小学生には強烈なものであった。

父の工夫から、当時の手動の農機具にプーリーを取り付け、脱穀から「風起し」にまで発動機はフル回転。

こんな器械は穀物に混ざっている屑や塵を風選するもの。

 

   農業機械の原点ともいえる手押し式播種器

春休みに手伝うも広い畑を一列づつしか出来ない、気の遠くなるものなれどそれなりに面白かったもの。

 
 

いずれの畑作農家にも数台あった。豆の種類によって円盤を交換、ピッチも換えられる。後部の鉄爪状のもので覆土をしながら進む。大正時代の十勝で考案されたものとか。

パーツフィーダそのものである。

 
   中学時代まで農業体験程度に手伝った、その道具たち <1950年代から(昭和30年代)>  
   

十勝の主要産品、甜菜(ビート)

製糖工場が出来て、生産者には砂糖が還元されたのか、中白(粗糖のたぐい)やグラニュー糖は幼少時代から豊富にあったように記憶している。母はビートから水飴を作って、味噌の仕込みにも使っていた。家族が甘党なのもうなずける。

ビート収穫では、耕作プラウのようなビートリフターで浮き上がらせてから、腰にロープをつないでこのカニ爪にかけて引き抜いた。

一本一本、当時の人たちは重労働に耐えていた。円形の城状に積み重ねて、タッピングナイフで葉を切り落とし、大根部は中央に盛り上げる。

爪で引っ掛けて大根部を持ち、刃の部分で葉を切り落とす。雪がちらつく頃、日が暮れて月明かりで切り落とした覚えがある。

 

 

ラッパと呼ばれる施肥道具。

肩車して歩いて施肥。下のY字は風に吹き飛ばされずに施肥するもの。うねに沿って歩く作業。子供にはとても背負えなかった。

薬剤散布のブロアーに噴霧器。

いずれも背負って歩いて散布する。

噴霧器のポンプ操作は出来たが背負

うのはムリだった。

不思議なものでブロアの回転感覚やポンプアップの感触がまだ手に残っている。

 
   製麺器  
 

うどんを中央のローラーで何度か伸ばして、ころあいでカッターローラーに通して出来上がり。

乾麺も多かったが、ソバやうどんの自給自足には欠かせない道具。

なんと現在も同様の製麺器が製造販売されている。⇒

50年も前の、こんな真鍮の光沢を記憶している。カッター部分は鋼板切断のガングスリッターと同じ、シュレッダーにも。

昭和30年代後半、父が「玉うどん」を街で買ってきたのに驚いた。

 

 
   
   付録/ 空冷星型9気筒エンジン(カットモデル)  
    第二次大戦のゼロ戦など星型エンジンはどういう構造になっているか想像はしたものの、こういうメカになっているとは今でも驚き。

 

戦後の農業にシングルクランクの石油発動機が革命的な働きをして、昭和30年代後半からトラクターが輸入され国産が製造、普及するまでの長いブランクは何だったのか。

軍事力が優先したとはいえ、こういう技術が農業などの一次産業に生かされるまで人海戦術に頼った父や兄達の苦労の時代が長かった。