2014/11/21

 

 

 夜学のデザイン   <1967-1970年(昭和42-45年)前後>

 
 

中学時代の美術の先生に「シンメトリー」や包装紙デザインなど習って、絵画とは違った社会の存在は知っていたが、仕事を終えてからデザイン学校に通うことになるとは思ってもいなかった。

まだ「デザイン」という概念の一般化していない昭和40年代の前半である。

先輩から5000円で買った中古の白黒TVでは「横尾忠則」氏たちが一世を風びしていてアートの社会での活躍を羨ましく見入っていた。 

 
 

時代背景

東京オリンピックで「ピクトサイン」などが始めて作られた、カラーテレビが普及し始めた時代。50年も前のことである。

 
    

「黒と銀」

1967年(昭和42年)
大きなボトルに小さなキャップという男性化粧品の通念を覆し、キャップとボトルを同じ径の円筒形にした、斬新で使いやすい形。デザインは当時の若者感覚にあわせ、チェッカーフラッグのような黒と銀のモノトーンのダイヤ文様で、鮮やかさとスピード感を表現した。商品名のMは「モダン」、Gは「ジェントルマン」の頭文字、5は「5つの特徴をもつ」ことを表現している。

新しい男性化粧品の登場といっても良い位の衝撃的なデザインでもあった。

 
  宇野 亜喜良氏の白黒、黄色など色の使い方が斬新、 横尾 忠則、ポップアート、サイケ調といった新しいデザインにあこがれもあった。

 

 

計量器製造メーカーにて、当時は石油系の情報が多く、定かでないが

職場で聞いたのは岡本太郎がデザインを頼まれたとき「色紙」を手で

ちぎってさっと並べたのがこのデザインだと聞かされた。さすがと

関心したもの。

右の絵は東郷 青児、当時横浜の地下通路でコピー版を売っていた。

 

 

 
 

スカーフのデザインイメージ

【横浜スカーフの歴史】

1859年の開港以来、横浜は生糸の輸出が盛んとなり、生糸から絹織物の輸出の流れの中で絹のハンカチーフが生まれる。これによりスカーフ作りの技術は横浜に集中するように。製造工程の「図案」「型」「染め」「巻き(縫製)」などの各工程の一つ一つの技術の精度が非常に高くなり、横浜スカーフは“世界最高の技術”と言われるほど有名なブランドに成長した。
良質なシルク製品としても評価、この技術水準はフランス、イタリアの水準と同列であり、特に絹のウス地プリント技術は世界一と言われている。

 

この学院の校長福田氏も染色デザイン担当だった。

生徒の作品を業者が買っていくという実戦さながらの時代。

現代のようなパソコンCADなどなく、原寸紙にシンメトリーでも丁寧にすべて手書き、ポスターカラーで着色していたのである。

 

 
 

デザイン学院時代の作品も写真も残念ながら持ち合わせていない。

 
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昭和42年10月は21歳の入社2年頃の話。給料が2万円に満たないサラリーで、記録では入学時2万4千円、毎月数千円はきついものであった。

金額もさることながら、週二回、6時半までに大船から弘明寺までバスでよくも通ったもの。

リビングデザインの基礎科から始まり、専門家、研究科に飛び級して終えた。足掛け2年半位だったか記憶がない。

 
 

基礎科でのイメージ

 
     

ケント紙を画板に濡らして張ることから、デッサンも。

左の図は「ペーパースカルプチャー」として色々なデコボコを擦り出して張り合わせる。

工場作業で指の指紋の中までカーボンがついていて、ケント紙を擦ると黒くなる。そんな生徒仲間はいなかった。

工業石鹸、真鍮ブラシで指紋に沿って擦り、指紋が磨り減って苦労した記憶がある。

 

当時のウールマークを生かした「ピクトサイン」の創作やマッチ箱のデザインなどベーシックなデザインを学習する。アイデアは昼間の工場での「単純作業」をしながら考え、メモり、深夜になるまで寮で制作したものである。

 
 

立体造形では左図のような折込をカラーケント紙に入れて曲げ上げると立体形状ができる。太陽をイメージした、照明装置として30センチボールの体で創作して、展示会に出展した、なかなかの出来だったと記憶している。

 

フォトモンタージュ作品や、アクリルを使った立体造形、コアピースでの連続造形デザインなど、多様な基礎デザインを習う。

 

 
   

昭和40年前半のこの時代、強い見方の「カッターナイフ」が登場。

スクリーントーンという、今でも漫画家などが使っているフィルムがあり、デザインの道具も進化の時代であったように思う。

 

ポスターカラーも絵皿で、それも指でこすり、混ぜる。そんな絵皿は50年後の今も版画に利用している。

 

 

 
 

パソコンのない時代、「レタリング」は本を買い込んでの、根気のいる作業だった。

映画の題名などが目立ったものだが、文字のデザインという前に「活字」を手作業で忠実に一字一字、書くのである。高校時代の製図道具が役に立ったものの、今ではイラストレーターなどのソフトで簡単に制作、創作もできる。

今は原稿がそのまま印刷データになる時代、アウトラインフォント、なんじゃそりゃ、の感である。

 

 

 
    ポップアートや、サイケデリックといった、ある意味ビジュアルデザインの黎明期であったように思う。大いに刺激された。

   

 
 

専門科 研究科での記憶イメージ

自由曲線  左がノーマルデザイン、右は反転したもので違和感あり。  
   

一番の記憶は、パッケージデザイン。

市販のコーラ6本ケースの欠点を解消して、新しいデザインのケースを製作。

今流、ティアダウンという方法でコーラのパッケージを解体展開。見事に一枚のダンボールから出来ているものの、持ち手が瓶のキャップに当って痛い問題を解消したデザインを創作。

一枚のダンボールから切り出し、応力集中による破れを解消、持ち上げるとV字に開く構造に創作。当時のサンキストレモンのライトグリーンを生かしたパッケージデザインを施した、なかなかのもの。

 

展示会に出展したものを飲まれてしまったほどリアリティがあった、思い出の作品であった。その当時の根詰め作業はは今はとても出来ない。

 
  世間知らずの「工員」と呼ばれた時代でも、横須賀の展示会、横浜駅での展示会など、満足する創作の環境ではあった。  

後記

寮の管理人、野沢氏が総務部のせいか、会社の啓蒙パンフのイラストを頼まれたり、工場の「注意イラスト」を頼まれた。現場で働きながらも時には寮で「その仕事」をした。

のちに札幌の企業での製品開発、カタログ制作などで生きてくるのである。おかげでお金は残らなかったが、必死のスキルアップという、まさに青春、アルカディアであった。

広告会社や、デザイン事務所などのその道に転職することにはならなかったが、後年製造業勤務の札幌で、開発業務やカタログ制作などに生かされる。若い時のキャリアはムダにはならないということである。