2014/11/14

 

 

 青春の汗 バレーボール<1965-1970年(昭和40-45年)前後>

 
 

昭和40年入社して、工場と寮の間のバレーコートで汗をかいた。

初めは安いユニフォームだったが、それなりにバレーボールらしくなって赤のユニフォームとなった。

 

 

 

 

 

高校時代、下宿生活で部活も出来なかったが、工場での単純作業で定時に終わると食事して即コートに出た。ボールが見えなくなると解散、即風呂に入ってと快適な環境であった。洗濯も洗濯機である。

バレーボールは職場や上下を超えてのグループ活動にて、仕事上でも有益であった。

 
 

9人制なれど日曜日は遠征も

戸塚の「日清食品」のコートでの遠征では「色々なカップ麺」をお土産に戴いた記憶がある。

 
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  藤沢のスポーツ大会でバレーではダメだったがソフトボールで賞を戴いた記憶がある。  
 

工場現場時代、髪を伸ばして床屋代を節約。多少自暴自棄もあってのことで、女性の先輩から短くしないと道が開けないよと諭されたり。

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9人制のバレーボール

社会人バレーボールもオリンピック同様6人制がメジャーといわれたが一般企業では、長身者が少なく、9人制のバレーボールチームが多かった。

横浜界隈では、まあまあのレベルになったが、6人制のチームを持つ企業との戦いでは歯が立たなかった。どこからでも全員が攻撃してくる。アタックラインがない9人制で、ネットの高さも違って。

その高さでも167センチの小生は、上げ底のシューズでトライした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何時もの練習コートと独身寮、渡り廊下が洗濯物の干し場。

 

 
 

初期の頃のユニフォーム。センターレシーブがメインで。長髪時代。

 

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後記

バレーボール仲間は「寮の同期」に「検査課」「業務課」「工務課」など工場の先輩たち。

若き日は二日酔いなどで会社を休んでも5時半にはコートにたって同僚を待った。欠勤は減給(日給月給)なるもあまり罪悪感は

なかった。サラリーマンとしての企業従属感や、使命感はまだ働いていなかった。

少しでもジャンプ力をつけたくて、暗くなったら一人で大船の寮から北鎌倉までランニングした、若さがあった。